イメージがGPレーサーにつながっていた2ストロークレプリカに対して4ストロークはマシンそのものがレーサーに直結していたバイクブームで強く求められたヒーロー、それがレースマシンとそれに乗るライダーだった。
まとめ:岡本 渉/協力:バイカーズステーション、佐藤康郎、H&L PLANNING
※本記事は2025年7月2日に発売された『レーサーレプリカ伝 4ストローク編』の内容を一部編集して掲載しています。

「速くなればヒーローになれる、なりたい」レーサーレプリカブームの時代
レーサーレプリカブームは2ストローク250ccのRG250Γ(1983年)、4ストローク400ccのGSX-R(1984年)から始まったが、それは市販車とそこに反応したユーザーたちについてのこととも言える。
それらの発売が強力な起爆剤になったのはもちろんのことだが、それ以前に、起爆のためのエネルギーの大きな高まりがバイクブームとして、日本のバイク市場にあった。1970年代終盤からの大きなバイクブームはその下地だ。
今の年間40万台弱という数値よりも市場規模が10倍、300万台以上が連続するというほどの、まさに一大ブーム。50ccの手軽な乗り物から750cc、それ以上のモデルまで。多くのライダー、販売店やパーツショップ、ウエアやパーツメーカーも数多くあった。
バイクがあれば速く走ろうとレースに浸る向きも、また世界GPや鈴鹿8耐などのビッグレースをはじめとして観戦に行く向きも多くいた。レースで速ければマシンやライダーは注目され、それに近い仕様の市販車両が求められる。観戦組もそれで雰囲気に浸れるし、走り組はそれをレーサーに近づけたくなる。

画像: 「速くなればヒーローになれる、なりたい」レーサーレプリカブームの時代
2ストロークは世界GPという分かりやすいモチーフがあったし、チューニングにも一足飛びで何か出来そうな雰囲気を期待する向きも多かった。一方の4ストロークはどちらかと言えば積み上げのチューニング。世界耐久などマニアックな方向に感じられてはいたが、手堅さはあった。
速くなればヒーローになれる、なりたい。後にレプリカブームに移行するバイクブームの目標としてレースが捉えられ、毎年、毎戦の変化に注目する。それと同時に、そうしたレーサーの変化を取り入れた市販車の登場、レースキットパーツの発売を心待ちにする。
TTF-1やスーパーバイクでは実際のレースベースとして。TTF-3やSP400/250、SP-Fでもそうだ。レーサーとともに自身のバイクも変わっていく。だからファクトリー製や有力チームのマシンは、レプリカブーム下の大きなモチーフとなった。ここに紹介したのは、そのほんの一部。これら以外にも、注目すべきレーサーは当時、膨大と言えるほどいたのだ。
ホンダ|さまざまな手法を検討しV4をレースの主戦力に
▶モリワキレーシング「CBX400F」(1983年)

画像: ▶モリワキレーシング「CBX400F」(1983年)
1983年の鈴鹿4時間耐久レースを制したモリワキレーシングのCBX400F。ライダーは宮城 光(写真)/福本 忠。クラスはTTF-3で見て分かるようにダブルクレードルのフレームは角断面のアルミで、この年は2位のヨシムラGSX400FW、3位のチーム38・GPz400もアルミ化していた。マフラーの変更すら難しかった当時、この改造感にも人気が集まっていた。
▶ホンダ・ファクトリー「CBR400R」(1984年)

画像: ▶ホンダ・ファクトリー「CBR400R」(1984年)
1984年の全日本選手権TTF-3で山本陽一が駆り第7戦・鈴鹿で優勝したファクトリーCBR400R。空冷直4エンジンを5角断面アルミ材のダブルクレードルフレームに積みNSコムスターホイールを履いた。
▶CBR400FK・VFR400FK(1985年)

CBR400FK
1985年シーズン用のホンダ市販レーサー。空冷直4のCBR400Fにピストンやカウル、サスペンションなどのキットパーツを組み込んだCBR400FK(写真上、65PSに)と水冷90度V4のVF400FベースのVF400FK(写真下、66PSに)。直4とV4の2本立てはこの後V4に軸足が移る。

VF400FK
▶ホンダ・ファクトリー「RVF400」(1985年)

画像: ▶ホンダ・ファクトリー「RVF400」(1985年)
1985年の全日本選手権でチャンピオンを獲得したファクトリーRVF400(山本陽一車)。ツインスパーフレームや足まわりは2ストロークレーサー的で、この年高い戦闘力を示した。
ヤマハ|FZRからYZFへ、並列4気筒で4ストロークを牽引した
▶FZR400・TTF-3レーサー(1983年)

画像: ▶FZR400・TTF-3レーサー(1983年)
1983年の東京モーターショーで展示されたTTF-3参戦用レーサー、FZR400。同社初の4ストロークレース用モデルとあって、2ストロークロードレーサーのYZRに対してFZRの名が与えられた。
水冷DOHC4バルブ並列4気筒で55PSを発揮していたXJ400Z/Z-Sのエンジンをチューニングし62PS以上(実際には65PS以上)、アルミフレーム/スイングアームやマグネシウムボディのキャリパーなどを使い138kgの軽量を達成。
フロント16/リヤ18インチで230km/h以上と発表。このレプリカとして翌'84年に近似形状のFZ400Rが発売される。
▶FZR400TTF-3レーサー(1984-1985年)

画像1: ▶FZR400TTF-3レーサー(1984-1985年)
FZR400は1984年の全日本選手権TTF-3でチャンピオン(江崎 正。上の写真は#1をつけて1985年を走るFZR+江崎)となった。
下の写真は1985年型FZR400で、アルミフレームはピボットから立ち上がるなど一新、フロント17/リヤ18インチのホイールはマービック中空スポークでフロントにはブレンボキャリパーが備わった。
エンジンはFZ400Rベースとなって70PS以上を出力、重量も135kg以下になった。多くのRC SUGOキットパーツも販売された。

画像2: ▶FZR400TTF-3レーサー(1984-1985年)
▶YZF400(1986年)

画像: ▶YZF400(1986年)
1986年型YZF400。前年からさらに大きく変わり、フレームはアルミデルタボックスに、スイングアームもテーパー形状になり、カウル先端上にエアダクト等を備える。
1986年にはFZR400が市販されるが、それはこのYZF400を公道仕様にしたと言われるほどで、ファクトリーレーサーと市販車の関係が近かった。
▶FZR750(1985年)

画像: ▶FZR750(1985年)
1985年の鈴鹿8耐に、GPを引退したケニー・ロバーツ(上写真)と全日本500クラスを2連覇し3連覇目前の平 忠彦が組んで出場するために用意されたFZR750。ベースはFZ750だが、もはや別物と言える内容を備えていた。
スズキ|充実したヨシムラキットパーツでTTF-3を善戦
▶GSX-R750(1985~1987年)

画像: ▶GSX-R750(1985~1987年)
TTF-1を油冷GSX-R750で席巻(1985~1987年の全日本を3連覇、1985年ル・マン24時間耐久1-2フィニッシュなど)したスズキ。その4ストロークレースの活動はヨシムラが多くを担っていた。TTF-3でも同様で、2ストロークのGPはスズキ本社カラーのホワイト×ブルー、4ストロークのTTF-1/F-3はヨシムラのブラック×レッドという印象が強かった。
そして当然ながらヨシムラは多くのキットパーツを開発・販売し、それらに対するガイドや解説書も用意した。また1985年鈴鹿200kmにはケビン・シュワンツが走り2位、上写真の1986年第3戦SUGOには辻本 聡がスポット参戦し優勝している(マシンは3型GSX-R)。
▶GSX-400FW(1983年)

画像: ▶GSX-400FW(1983年)
スズキとヨシムラは一貫して共同開発によるTTF-3キットパーツを開発・販売した。上の写真はGSX-Rの前身となる1983年型GSX400FWのキットパーツ組み込み車。外装やマフラーもキットパーツ。下の写真は1984年のGSX-R・TTF-3キット車。

GSX-R・TTF-3キット車(1984年)
▶ヨシムラチューン「GSX-R」TTF-3コンプリートマシン(1985年)

画像1: ▶ヨシムラチューン「GSX-R」TTF-3コンプリートマシン(1985年)
ヨシムラチューンによるGSX-R(400)のTTF-3コンプリートマシンで、上は1985年型ベース。下の写真は1987年型用のストリップ。カウリングやマフラー以外にもホイールなども異なり、これはトルネード思想と呼ばれた。
さらに後に、油冷GSX-R1100を元にした公道用チューニングコンプリートの「トルネード1200 ボンネビル」開発につながるが、ここでもストリート(レプリカ)とレースの関係性が近いことが感じられる。

画像2: ▶ヨシムラチューン「GSX-R」TTF-3コンプリートマシン(1985年)
カワサキ|遅れてやってきた巨人は貯めていた力を存分に発揮する
▶ZXR-7(1988年)

画像: ▶ZXR-7(1988年)
1982年の世界GPを最後にレース活動を休止していたカワサキ。他社の動きを静観していたが、1986年に全日本TTF-1に750cc専用設計の市販車、GPX750Rをベースとしたワークスマシン、ZXR-7を実験投入する。さらに翌1987年からファクトリーチームによる本格参戦を始めた。
上の写真は続く1988年の鈴鹿8耐を走ったZXR-7(コーク・バリントン/ロブ・フィリス車)。車体もエンジンも次への大筋が決まり、細部を煮詰めていたところ。極太のツインスパーフレームや緩やかにテーパーしたスイングアームとその外側の溶接痕、スイングアームエンドのエキセントリックアジャスターなどにも開発途中らしい作りが見える。翌1989年には待望のレースベース車、ZXR750が登場する。
▶ビート「ZXR400R」(1989年)

画像: ▶ビート「ZXR400R」(1989年)
1989年の鈴鹿4耐で優勝したビートZXR400R(高橋芳延/和泉美智夫組)。ベース車として強力なZXR400Rが登場したことで、カワサキユーザーも増えた。この頃の4耐は2ストローク勢と4ストロークの戦いの感も濃くなった。
▶ZXR-7(1993年)

画像: ▶ZXR-7(1993年)
TTF-1の最終年となった1993年の鈴鹿8耐。ZXR-7はスポンサーとなった伊藤ハムの赤×白×青のカラーをまとい、アーロン・スライト(写真)とスコット・ラッセルが走らせ、カワサキに初の8耐優勝をもたらす。このカラーリングをZXR400に施した限定仕様車も販売された。
まとめ:岡本 渉/協力:バイカーズステーション、佐藤康郎、H&L PLANNING
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